海を渡った『甲子園の土』沖縄の哀しい、そして感動の秘話

サファイア玲子こと高木玲子

2007年08月07日 02:35

昨日の夜記事を書いてから、約20年前の事とはいえ、もし間違っていたら高校野球フリークの
私の名がすたる!と思い、沖縄水産と戦った甲子園球児について気になって調べてみた。

訂正します。PL学園ではなく、天理高校との優勝戦だった思います。
白熱の中、私が応援していた沖縄水産と戦っていたのは・・・1990年の夏の甲子園でした
幼い頃より私は、父が奈良県出身だった為、大阪代表のPL学園と同じ位、お隣の県、奈良代表として
お馴染み、関西強豪の天理高校を毎回(春夏)応援していましたから・・・

本当に、沖縄水産も天理高校も、どちらも強かった感動モノでした。

そして・・・
この試合の事を確かめるために、私は別の、高校野球にまつわる、甲子園での
沖縄の歴史上、非常に意味深い、ある出来事を発見してしまいました。
もしかしたら、沖縄の皆さんは良くご存知なのかもしれませんが、
私にとってそれは、衝撃的なお話でした。

まさに感動秘話、ですね・・・
首里高校友愛の碑』のお話です。以下、<甲子園にまつわるトリビア>よりの記事・・・


40回夏の大会(1958年)、それを記念して初の1県1代表を採用。
さらに沖縄からも首里が初出場したが、記念の甲子園の土を持って帰ることができなかった。
 沖縄は戦前、そして戦後はアメリカ占領下ながら第34回(52年)から予選に参加していたが、
第40回の首里が初めての沖縄勢の甲子園出場となった。首里は初戦で敦賀と対戦。
惜しくも0-3で敗退した。首里ナインは記念に甲子園の土を袋に詰めて沖縄へ帰ろうとしたが、

植物防疫法に引っかかり、那覇港の税関で甲子園の土が

没収され、

検疫官によって海に捨てられてしまった
。沖縄はまだ外国だったからである。
 このことを知った当時日本航空のスチュワーデスだった近藤充子さんが、
石なら防疫法に引っかからないということで、桐の箱に甲子園の石を詰め、首里ナインに贈った。
沖縄の現実を痛感させられた事件だったが、土よりも大きな石が首里ナインの甲子園の思い出を
大きくしたに違いない。
<参考ページ>友愛の碑(首里高校)






【補足トリビア】
(1)そのときの石は首里高校校庭に建てられた「友愛の碑」の台座部分にはめ込まれている。



という記事を、熱闘!甲子園の中から見つけたのです。あまりに感動的で素敵な話でビックリ!
涙なしでは、いられませんでした・・・

日本航空のスチュワーデスだった、近藤さんのとった行動は、どれほど首里高校の球児たちの
無念の気持ちを救った事でしょう!諦めていた砂(土)が石に代わり沖縄の地に運ばれただなんて
甲子園の土を持ち帰ると言う事は、優勝という夢破れた高校球児たちにとっては、
特別な思いがあるでしょうから・・・少年達の青春時代最大の思い出ですから、甲子園は

彼女の勇気や本当の優しさにも脱帽です!
会社は違いますが、奇しくもエアライン、航空業界で、客室乗務員という、同じ仕事に就いていた
女性として誇りに思いますなんて人間らしい、心に染み入るお話なのでしょう・・・

と同時に、規制のある中で戦い抜いた、復帰前の高校球児たちの活躍に、心からエールを送りたい
ないちゃーであるがゆえに、まだまだ知らない沖縄の歴史や文化
沖縄の背景を、これからも機会があるごとに少しづつ、知ってゆきたいと思います

日曜日に抽選会も無事終わり、いよいよこれからが夏の甲子園、高校野球の本番ですね
さぁ、気合入れて、応援しましょうねー興南高校へ、県民としてエールを送らなきゃ
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